ORIGIN

私の原点

鹿嶋を出ていく若い人が、増えました。
仕事がないからだけではないと思います。
この街にいても、先が見えない。

その不安は、私だけのものでしょうか。

01

実家の商売が、大きく縮んだ

高校生のときです。家業の酒類量販が、規模を大きく縮小することになりました。ずっとこのまま続くと思っていたものが、続かない。守っているだけでは守れないんだと、そのとき初めて知りました。

02

選挙で、負けた

大学生のとき、身内が市長選挙に出ました。一族総出で走り回りましたが、届きませんでした。鹿嶋の市長選で、いちばん惜しい負け方だったそうです。二十歳前の自分に残ったのは、悔しさだけでした。

03

帰る場所は、縮んだ家業しかなかった

大学二年で東日本大震災がありました。四年の最後には、身を置いていた政治の世界が終わりました。就職先はなく、帰る場所は縮小した実家だけ。内定もないまま、月三万円ほどの手伝いから始まりました。

04

先が見えないことが、いちばん苦しかった

お金がないことより、先が見えないことのほうが、ずっときつい。数か月でそう思い知りました。何かしなければと、行政書士の勉強を始めて、八か月で受かりました。すぐ独立しましたが、売上はまるでない。それでも先が見えるというだけで、毎日が楽しかった。

05

友人たちが、いなくなっていた

何年かかけて事務所の仕事がようやく回るようになり、家業のほうも立て直しの目処がついてきました。ようやく軌道に乗ってきて、顔を上げられるようになって、はじめて周りが見えました。友人たちが、次々と鹿嶋を離れていた。理由は聞かなくても、なんとなく分かりました。あのときの自分と、同じなんだと。

06

ないなら、つくるしかなかった

仲間と酒を飲んでいて、地元で音楽イベントをやろうという話になりました。ほとんど勢いです。でも本気でした。先が見えないと言われるこの街で、自分たちの世代で何かを変えたかった。無駄も遠回りも山ほどありましたが、あれは間違いなく青春でした。翌年には、二十年以上この地域が待っていた花火を海岸に上げました。

07

そのころ、街の足元が揺れた

花火を上げた前後に、鹿嶋を支えてきた製鉄所の高炉休止が発表されました。同じころ、この街の誇りであるスタジアムの問題も持ち上がりました。まずいな、と思いました。それでも、自分が政治をやるとは考えていませんでした。

08

イベントでは、動かせないものがあった

音楽も花火も、街を明るくすることはできます。でも、産業の転換も、子どもたちの教育も、災害への備えも、そこでは動かせない。自分たちで何とかできる範囲の外側に、この街の本当の課題があると気づきました。

そのころ、市長と県議から声をかけていただきました。悩みました。長いこと、答えが出ませんでした。

相談したのは、地元の先輩や後輩、近所の方々、仕事で世話になってきた取引先の皆さん。厳しいことを言う人もいれば、黙って背中を押してくれる人もいました。最後に腹を決められたのは、妻がうなずいてくれたからです。

負けて、また負けて、それでも立ってこられたのは、
そのたびに誰かが手を貸してくれたからです。

家族、地元の先輩や後輩、近所の方々、仕事で世話になった皆さん。
数えきれません。

いま自分が鹿嶋のために働けているのも、
応援してくれる人がいるからです。

その感謝は、言葉ではなく仕事で返したい。

1961年。鹿島開発が始まった年です。

当時の人たちは、まだ見ぬ明日の鹿島を必死に想像して、話し合って、犠牲も払いながら開発を進めたはずです。あれがあったから、いまのこの街があります。

その功労者は誰か。私は、誰か一人ではなく、当時の市民ひとりひとりだと思っています。切り拓いた人たちの血は、いまも私たちに流れている。

この土地は、先人から受け継いだものです。でも同時に、これから育つ子どもたちから借りているものでもある。

まだまだ知識も経験も足りません。皆さんから学びながら、この街の課題を一つひとつ解決していきます。

私たちの世代で、あともうひと踏ん張りしませんか。
この鹿嶋には、それだけの底力があると信じています。